第90章

                。それにしても、自分の片腕がそんなことになっちゃってるっていうのに、全く元気のいいお嬢ちゃんだね。何かいいことでもあったのかい? ま、ともかく――『ファウスト』の話。ヨハン?ウォルフガング?フォン?ゲーテ、疾風怒濤時代、シュトゥルム?ウント?ドラングの代表的作家なんだけれど、その作家の集大成としての代表作が、戯曲『ファウスト』だよ。その内容は――お嬢ちゃん、じゃあ知ってる限りでいいから、阿良々木くんに教えてあげてくれるかな?」「ん、ああ」遠慮がちに僕を見る神原。微妙に申し訳なさそうな目線。ジェイコブズの『猿の手』の梗概を話してくれたときもそうだったのだけれど、神原駿河は性格的に、目上にあたる人物に対して何かを教えるという行為には、どうやら後ろ暗さのようとつじょしっぷうどとうこうがい315試用中試用中試用中試用中試用中試用中試用中試用中なものを感じてしまうらしい。徹底して体育会系だ。「ゲーテの代表作というのは、忍野さんの言った通りで……そうだな、わかりやすい特徴としては、それが二部から構成された物語であるということかな。『初稿ファウスト』、『ファウスト断片』を経て、『ファウスト第一部』、『ファウスト第二部』。そんな風に六十年以上もかかって完結した、最大な大作なのだ。全くもって頭が下がる。ゲーテといえば『若きウェルテルの悩み』や『親和力』も有名だが、渾身の一作といえば、やはり満場一致で『ファウスト』ということになるのだろう。主人公のファウスト博士が、メフィストフェレスという悪魔に魂を売り渡し――全ての知識を得ようとする物語、とでも言えば、紹介としては十分だろう。ネタバレになるから詳しくは話せないけれど、内容としては、第一部では庶民の娘であるグレートヒェンとの恋愛を、第二部では理想国家の建設を描いている。哲学思想というか、知識探求の物語と読むのが一般的だな。阿良々木先輩ならば、まあ当然ご存知だろうとは思うが、『ファウスト的衝動』という言葉もあるくらいで、それは、全てを知り、全てを体験しようという知識欲にのっとった衝動のことを言うのだ」「…………」『ファウスト』自体を知らない先輩が、どうして『ファウスト的衝動』なんて言葉を知っていると、この体育会系の後輩は思うのだろう。「悪魔に魂を売るってところが、その話の肝なんだよね――悪魔に魂を売って、その『ファウスト的衝動』に基づく願いを、叶えてもらおうとするファウスト博士……結末がどうなるのかは、勿論、阿良々木くんに本屋さんに行ってもらうことにしよう。うん、まあ、そうなんだ。お嬢ちゃんが説明したところまでが、一般常識だ、そこまで認識できていれば、僕も話がしやすいよ。読んでないのにそこまで立て板に水で弁舌さわやかに語ることができるってのは、全くもって素晴らしい。付け加えることがあるとすれば、そうだな、案外知られていないんだけど――まあ、そうはいってもゲーテについての解説本とかを読めば普通に書いてあることなんだけどさ、実際、古典なんて今時の人間は読まないからね。お嬢ちゃんのことを言うわけじゃないけれど、読まなくても読んだ気になっちゃうような有名な話をわざわざ読む必要はないってわけだ。だから知られていなくてもしょうがないんだけど、うん、そもそも、この『ファウスト』って物語は、実在の人物をモデルにしていてね」「なに? そうなのか?」意外そうなリアクションをする神原。『ファウスト』自体を知らない先輩には、驚きのポイントがどこなのかわからない。「ヨハン?ファウスト。文芸復興、いわゆるルネサンスの時代に生きたと言われているよ……しょこうこんしんきもべんぜつふっこう316試用中試用中試用中試用中試用中試用中試用中試用中まあ実在の人物といっても、その辺りはその辺りで諸説あるんだけれど、この人についてのお話が、後に民間伝承となったのさ。医者や魔術師として放浪生活を送り、やっぱり悪魔?メフィストフェレスに魂を売り、ありとあらゆる知識と経験と引き換えに、キリスト教徒の敵として行動することを悪魔と約束し、それから二十四年間に亘って、まさしく『ファウスト的衝動』のままに生きて――契約が切れたと同時に、悲惨な最期を迎えることになる。これも詳しくは自分で調べなさい、『ファウストゥス博士』に詳しいから」「ふうん……そうだったのか」忍野の雑学に、感心した風な神原だった。まあ『ファウスト』云々はともかく、民間伝承が噛んでいるのなら忍野の分野だから、この程度の博引傍証は恒例のことなのだけれど、この感じだと、ひょっとするとこれからは忍野のことも持ち上げるようになるのだろうか。というか、その辺りの神原の基準が僕にはよくわからない。どうやら、誰に対しても同じように差別なく褒め殺すというわけでは、ないみたいだが……。「てっきり、ゲーテの創作だとばかり思っていた。巷の言い伝えを下敷きにしていたのか」「まあ、ストーリーにゲーテ流のアレンジがかなり加えられているから、強いていうならゲーテ版『ファウスト博士』って感じだね。太宰の『走れメロス』や芥川の『羅生門』みたいなものだ。今昔物語と芥川とじゃ、『羅生門』の印象もだいぶん違うだろう? そんな感じ。ゲーテ以外にも、ファウスト伝説は色んな人が物語化しているよ。有名なところでは、イギリスのマーロウとかね。マーロウは知ってる? レイモンド?チャンドラーのフィリップ?マーロウじゃないよ? クリストファー?マーロウだ。シェイクスピアの先輩作家として紹介されることが多い人なんだけれど、ほら、『フォースタス博士』っていってね」「ファウストの方が医者というのは、少し面白い」神原は微妙なはにかみと共にそう言った。うん? と忍野が怪訝そうに首を傾げたところを見ると、そのはにかみの意味は忍野には通じなかったみたいだけれど。「けど……忍野」どことなく話が逸れているような気がしたので、僕は、『ファウスト』については結局よくわからないままに、忍野と神原との会話に参加を試みることにした。「それがどうかしたのか? いつもながらのまだるっこしい長広舌は大いに結構なんだけど、それが現在の神原の状況にどう繋がってくるのか、僕にはわからないよ。テーマが脱線して、横滑りを起こしてるんじゃないか? 魂と引き換えに悪魔が願いを叶えてくれるってところは、そりゃ猿の手に似ているのかもしれないけれど、でも、この神原の腕が、『ファウスト』に登場する悪魔、メフィストフェレスとやらの腕ってわけじゃないだろ(继续下一页)六六闪读 663d.com