第87章

                言われるまでもない。それは――両親に関する願いに違いないだろう。両親の、生命に関する願い。『足が速くなりたいです』。小学四年生の神原駿河は、木乃伊に――そう願った。その時期の神原は、鈍足で知られていたそうだ……方言のことだけじゃなく、それも、同級生からからかわれる理由の一つだったらしい。高校生になってから考えれば、そんなの、方言と同じくらい馬鹿馬鹿しい理由だけれど、しかしたとえそうでなくとも、足が遅いというのは、小学生にとっては、真剣で深刻な悩みだろう。その頃、たまたま、通う小学校で、近く運動会が開かれることになっていて――その徒競走で一等を取れば、みんなの自分を見る目も変わるんじゃないかと思っての、願いだったそうだ。「当時の私は運動神経が致命的に鈍かったんだ。のろいというかとろいというか、普通に歩いていても、転んでしまうくらいにな」「ふうん……でも、今は」バスケットボール部のエース。スター。「……って、じゃあ、ひょっとして」「そうだったら、よかったんだがな」むしろ、と神原は言った。「その夜、私は夢を見た。雨合羽を着た化物に――子供が襲われる夢だ。布団に入ってよく寝ている子供を、化物の左手が容赦なく襲う、そんな悪夢を――見た」「…………」「勘のいい阿良々木先輩ならば、もう既にこのストーリーの落ちは見えているだろう。次の日、目を覚ました私が学校に行くと――四人の生徒が、欠席していた。四人は四人とも、私が運動会で、徒競走で一緒に走る予定だった生徒だった」猿の手。いわく、猿の手は持ち主の願いを叶えてくれる。? ? ? ? ? ? ? ?? ?306試用中試用中試用中試用中試用中試用中試用中試用中いわく、ただし、持ち主の意に添わぬ形で――「ぞっとした。私は慌てて、図書館で、その木乃伊の正体を探った――すぐにジェイコブズの『猿の手』に行き当たったさ。恐ろしさに、背が震えた……もしも、二つ目の願いを一つ目に持ってきていたら、一体全体どうなっていたのだろう、と。いや、その四人の同級生にしたって、場合によっては死んでいても全くおかしくなかったはずなのだ……運よく大事はなかったものの、そうなっていてもおかしくなかった」神原は、木乃伊を箱に戻し、開ける前よりも更に厳重に封をして、押入れの奥に仕舞い込んだという。二つ目の願いも三つ目の願いも、とんでもなかった――全てから目を逸らしたかった。全部忘れてしまいたかった。けれど。そうはいかない。どれほど忘れたくとも、忘れるわけにはいかなかった。それは運動会までは、まだ時間があったからだ――更に次の日の練習の際、神原は、他のグループに入れられることが決定した。今度は五人。別の五人と――一緒に走ることになった。「私はどうしたと思う?」「…………」「どうすれば、よかったと思う?」どうするもこうするも、そのまま何もしないでいたとしたら――そんなこと、結果は火を見るよりも明らかだった。同じことが起こるだけ……同じことが繰り返されるだけだ。だから、普通に考えれば、木乃伊に願うしかない状況だろう――一つ目の願いをキャンセルしたいと、木乃伊に願うしかないだろう。けれどそれは、怖かった。木乃伊のことを既に調べてしまった神原には、怖いことだった。持ち主の意に添わぬ形で――どのような形でその二つ目の願いを叶えられてしまうか、わかったものではないから。だから、神原は、走った。走って、走って、走った。足が遅いから――足が速くなるための、努力をした。「自力で願いを叶えてしまうしか、なかった。そうすれば、木乃伊が同級生を襲う理由なんて、なくなるのだからな。幸い、努力を始めれば、コツはすぐにつかめた――体重が重いとか307試用中試用中試用中試用中試用中試用中試用中試用中足を痛めているとか、物理的に足が遅くなる要因があったわけではなかったのでな、運動神経自体はすぐには発達しないにしても、駆け足だけなら、なんとかなった。運動会では、無事に一等を取れたよ。……それがきっかけで、クラスの連中とも、仲良くできるようには、なり始めた。さすがに、もうしばらく、時間はかかったがな」そして、めでたく自力で願いを叶えることに成功した神原は――運動会の後も、その努力を怠らなかった。元々才能があったのだろう、なんていうととても失礼になるかもしれないが、彼女が積み重ねる努力は次々と花を咲かして実り続け、六年生になったときには、早くも中学校の陸上部から誘いが来るほどだったという。『たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ』。とか。けれど、神原は陸上部に入るわけにはいかなかった。神原は、自分よりも速いかもしれない人間がいるところに、身を置くわけにはいかなかった――木乃伊に願った一つ目が、どこまで効力を持ち続けるのか、わからなかったからだ。それはひょっとすると運動会で一等を取った時点で終わっているのかもしれないけれど――ひょっとすると、一生続くのかもしれなかった。それは、確認の取りようがないことだった。確認が取れない以上、後者の可能性に、怯えないわけにはいかない。神原にしてみれば。自分が長距離走に向いていないことは、その頃にはもうわかっていた――小学生レベルのマラソンならともかく、中学高校と、それを続けていくことはできなかった。ほんの少しでも自分よりも速い人間がいたら、それで全てはご破算、おしまいなのだから。だから神原は、中学で、バスケットボール部に入ったのだろう――コートの中だけにフイールドを区切り、限ってしまえば、神原に追いつけるものは、誰もいなかった。「部活に入らない、運動をしないという選択もあったのかもしれないが、いざというときのために身体をなまらせるわけにはいかないというだけではなく、ほとんど、運動は、私にとって強迫的な拠りどころみたいになっていたのでな。何かをしていないと――押し潰されそうだったのだ。スポーツ少女なんて言われているが、本当のところはそれほど大したものじゃないのかもしれない。私は恐怖につき動かされていただけなのさ」でも。バスケットボールは、楽しかったらしい。好きになったらしい。それこそ、強迫的な拠りどころでしかなかったはずの自分の足を――前向きに、ポジティヴに、活かすことができたから。木乃伊から逃げるための手段でしかなかったはずの自分の足(继续下一页)六六闪读 663d.com